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ニュースレターNo.58/2014年11月発行

IPv6アドレスポリシー策定の軌跡と日本の功績

株式会社インテック
荒野 高志

IPv6アドレスポリシー策定に関する議論は、2001年6月6日にInterop 2001のSpecial Session BoFとして開催されたIP-Users Meetingでの、私の提案がきっかけだったと思います。この提案の中で、基本的な考え方やいくつかの選択肢を提示し、参加者の方々と議論を行う中で、最終的にAPNICで提案を行う形にまとめ上げていきました。

この時点で、ポリシーをスクラッチから作り上げていくこと、そして日本から積極的に提案を進めていくという大方針も明確にしていました。これは、IPv6が従来のIPv4とは異なる性質であることを重視し、IPv4の考え方にあまりとらわれずにポリシーを作っていくべきだということ、また当時1番IPv6のディプロイメントが進んでいた日本が、このポリシー策定議論をリードしていくべきだという考えによるものです。当時、IPv6のアドレス分配に関しては、IPv4アドレスの考え方を踏襲していたり、規定が不明確な部分があったりする暫定的なポリシーが運用されていました。しかし、日本では既にIPv6の商用サービスを開始しているISPもあり、さらにIPv6サービスを拡大させていくにあたっては、暫定ポリシーでは支障を来す恐れがありました。そのため、将来にわたって対応できるポリシーを、早急に整備する必要性があると感じていました。

日本におけるコンセンサスに基づき、2001年8月に台湾で開催されたAPNIC 12において提案を行い、2日間にわたり議論を行いました。1日目に日本でコンセンサスを得た提案とRIRからの提案が発表されて、その場でもさまざまな意見が出されましたが、結局二つの提案を一つにまとめるべく、関係者が会場ホテルの一室に集まり、一晩かけて細部の調整と提案の修正が行われました。そしてその修正案を2日目に再度議論し、最終的には基本方針についてコンセンサスを取り付けることができ、細部に関してはメーリングリスト(ML)で議論を進め、並行してポリシーを文書として作成していくことになりました。この際、グローバルで統一的なポリシーにしていくために、他のRIRでも提案を行いコンセンサスを取り付けるという条件が付けられました。

当時はまだLACNICとAfriNICが設立される前でしたので、ARINとRIPEで提案活動を行うことになり、まずは2001年10月1日からチェコのプラハで開催されたRIPE 40に参加しました。APNIC事務局の文書担当だったGerard Ross氏と連名で、APNICでコンセンサスを得た内容を提案しました。最終的なコンセンサスという形には至りませんでしたが、少数メンバーによるドキュメントドラフトの編集チームを編成すること、そしてグローバルレベルで議論を行うための専用のMLを作成することなどが合意されました。なお、全体的に「もっとじっくり時間をかけて議論すべき」という雰囲気になりかけていたのですが、日本における商用サービスの展開状況などを説明し、早期にポリシーを策定する必要性を理解してもらうことができました。

RIPEに続き今度は北米地域において、2001年10月29日から米国のマイアミで開催されたARIN XIIIミーティングで提案活動を行っています。APNIC地域における議論の状況を私が、RIPE地域の議論についてDavid Kessens氏がそれぞれ発表を行い、チェアであるThomas Narten氏が議論の進行を行いました。経路集約と初期割り振りサイズに関する点やIXへの割り当てに関してなど、細部にわたる議論が行われましたが、最終的にはAPNICやRIPEと同様に、グローバルで統一したポリシーを作るといった点を含めた基本方針部分については合意を得ることができました。

各RIRのミーティングを一回りした頃に、専用のグローバルMLが立ち上がり、ポリシー文書のドラフト作成チームも結成されます。ドラフトチームは当時のJPNIC IP-WGを中心に、IPv6オペレーション研究会やIPv6普及・高度化推進協議会にも参画してもらい、2001年12月頃までに日本としてのポリシードラフトを作成しています。作成にあたっては、IP-USERS ML、IPv6オペレーション研究会、WIDEプロジェクト、JANOGなどのメンバーからも意見を伺い、多大な協力を得ながら進めていくことができました。

ドラフト作成では、随時、細部の調整を行いましたが、当初からこだわりをもっていたのが、分配組織をISPに限らず、サービスプロバイダー全般にしたことです。これは、IPv6の特性を考慮し、インターネットへの接続性がない場合でもアドレスの分配を受けられるようにするためです。IPv6の普及のためにはそういうケースも想定した方がよいだろうと考えました。

そして、日本チームでまとめたドラフトをグローバルMLにポストし、各RIRのPolicy SIGチェアを中心としたメンバーによるエディトリアルチームにて、MLを通じたブラッシュアップ作業が行われていきます。また、2002年1月14日からのアムステルダムでのRIPE 41でも、オンサイトの議論が行われ、ドラフトの編集作業が続けられていきました。

このように作成されたドラフトでコンセンサスを取り付けていくために、2002年3月3日からタイのバンコクで開催されたAPNIC 13、4月8日からの米国ラスベガスでのARIN IX、そして最後に2002年4月29日からアムステルダムで行われたRIPE 42と、再度各RIRのミーティングを回っていくことになります。それぞれで、細かなエディトリアルレベルの修正が加わり、2002年6月27日に最終版のポリシー文書が出来上がり、ついにAPNIC地域では7月1日より新たなポリシーによるIPv6アドレスの分配が開始されました。

このように、IPv6アドレスポリシーは、日本からの提案を、地球をほぼ二周回りながら、各地域での議論を経て出来上がりました。そして、各RIRで統一的なグローバルコーディネイテッドポリシー(各RIRによって同一の内容で承認されたポリシー)として制定された最初で、かつ現時点でも唯一のポリシーとなりました。

当時は、IPv6で世界をリードしていこうという機運が日本のコミュニティでも盛り上がっており、その中で新たなIPv6アドレスポリシーを一から作り上げていこうというアイディアに、多くの方から支援や協力、助言をいただくことでこれを成し遂げることができました。日本のコミュニティからも、開発者、運用者それぞれの立場で、いろいろな角度から多くの助言をいただきました。特に、タイトなスケジュールの中で文書作成を行い、一緒にRIRのミーティングにも参加していただいたドラフト作成チームのメンバーには感謝したいと思います。また、日本のコミュニティだけでなく、各RIRのコミュニティの方々からも多くのサポートをいただきました。多くの方に日本の先駆者的な姿勢をリスペクトしていただき、前向きな意見をもらえたことは、グローバルコーディネイテッドポリシーを作っていくという大変な作業の中で、とても勇気付けられるものでした。

ポリシー策定のために世界を駆け回ったこの時期というのは、ちょうど2001年9月11日の米国同時多発テロ事件があったことで、海外への渡航に関しては緊張感を伴う状況でした。特にARINミーティングへの参加にあたっては、所属組織で米国出張許可を得るための調整に苦労したり、実際の入国の手続きにとても時間を要したりといったことも思い出されます。しかし今振り返ると、そういった苦労も前述の多くの方々のサポートがあったからこそ乗り切れたのだとつくづく感じています。最後になりますが、私の交渉パートナーとして一緒に世界を飛び回り、各国のキーマンとの調整に多大な貢献をしていただいた株式会社ユビテックの伊藤公祐さんには、特別な感謝の意を表したいと思います。

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